いじめ加害者は勝ち組、私は精神崩壊——壊されたままの人生に意味はあるか?

ライププランABC編集部

ある日、著者の元にこんなに切ない質問が寄せられてきました。

私をいじめていた人は大企業に就職して結婚し、家を建て、親に孫の顔を見せました。一方で、私はいじめが原因の精神病で入院し、就職先もなく、もうそろそろ人生が終わりそうです。
私は絶望の淵に立たされるしかないのでしょうか?

——この問いは、誰かひとりの悩みではなく、多くの人の心の中にひそんでいる、決して口にできなかった本音ではないでしょうか…。

「因果応報」はフィクションでしかない

私たちは子どもの頃から、「悪いことをすればバチが当たる」「努力すれば報われる」と教えられて育ちます。

でも現実は、まったく違います。何とも、無情ですよね…。

橘玲さんの著書『言ってはいけない 残酷すぎる真実』では、「いい人が報われるとは限らない」「遺伝と環境が人生を大きく左右する」という冷徹な現実が示されています。

たとえば、他人を支配しようとする攻撃的な性格が、ビジネスの現場では「リーダーシップ」と呼ばれることがある。声が大きく、自己主張が強い人ほど出世していく。

一方で、いじめられた経験のある人は、人の顔色を読みすぎてしまったり、自分を責めてしまうことが多い。そんな繊細さや優しさは、競争社会では「弱さ」として切り捨てられることもある。

いじめの傷は、時間では癒えない

多くの人が誤解していますが、いじめの被害というのは「過去のこと」ではなく、人生全体に深く影響する傷です。

10代のときに受けた心のダメージが、大人になってもフラッシュバックしたり、社会生活に支障をきたすことは少なくありません。精神疾患を患い、働くこともままならず、ただ「生きているだけ」で精一杯の日々が続くこともあります。

それでも社会は、「普通に働いて、結婚して、家を買う」というテンプレートを求めてきます。

そして加害者はというと、何事もなかったかのように、順風満帆な人生を歩んでいる……ように見えるのです。

それでも「自分の人生」をどうにかしたいなら

ここで大切なのは、「それでも自分の人生を諦めたくない」と思う人に向けた話です。

橘玲さんの考え方に、「人生は自分のプロジェクトだ」というものがあります。

私たちは生まれつきの遺伝や環境、出会った人々によって人生の土台を作られます。でも、その上にどんな物語を重ねていくかは、ある程度自分の手に委ねられている。

例1:壊された経験から小説を書く作家

作家の綿矢りささんは、学生時代のいじめを小説のテーマにしています。彼女はインタビューでこう語っていました。

いじめられた経験って、無駄じゃないんです。あれがあったから書けたものがあるし、感受性も深くなった。あのとき苦しんだ自分も、自分の大切な一部です。

壊されたからこそ見える世界がある。これは、他人には絶対に真似できない「あなただけの視点」です。

例2:精神病を経て人を支えるカウンセラー

あるカウンセラーの方は、うつ病で3年間働けなくなり、自殺未遂も経験したといいます。けれど今は、「同じように苦しむ人にしか届けられない言葉」を武器に、相談支援の仕事をしています。

壊れたからこそ、他人の壊れ方もわかる。壊れた自分も、いま誰かの役に立っていると思えるようになった。

このように、苦しんだ過去が、誰かにとっての希望になることもあるのです。

まずは、生きているだけで合格点

「人生が終わりそう」と感じるほどに追い詰められているとき、無理にポジティブになる必要はありません。

ごはんを食べること。眠ること。呼吸すること。

それすら難しい日は、「今日、生きていた」という事実だけで、あなたは充分がんばったのです。

人生に意味があるとすれば、それは「誰かの物語に登場すること」

人生に絶対的な意味はありません。でも、人は誰かの言葉、誰かの存在によって救われることがあります。

あなたの経験が、これから誰かを支える「証言」になるかもしれない。

それができるのは、あなたがこの世界に、まだ生きていてくれるからです。

あなたの人生の編集権は、まだあなたにある

いじめられた人間は、いじめた人間の何十倍も、何十年も長く苦しみます。

だから、あなたの人生は「弱い」んじゃなくて、「よくやってる」んです。

心理学者のアルフレッド・アドラーの言葉を借りるなら、

あなたの人生は自分で決めろ。他人に足を踏み込ませてはいけない

この言葉を、そっとポケットに入れておいてください。